インタビュー・レポ

【理Ⅰ→計数工学→経産省→起業】経産省での経験から「官と民」を繋げる起業へ

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今回は、理科Ⅰ類から工学部計数工学科へ進学したのち、経済産業省に入省、現在は独立して株式会社Publink(以下:Publink)を運営している栫井誠一郎(かこい・せいいちろう)さんのインタビューをお届けします。

──栫井さんは理科一類から計数工学科へ進学されていますが、それはなぜでしょうか?

まず、私は劣等生でした(笑)。工学部計数工学科は当時底点が低かったんですよ。とはいえ、もちろん自分の中で選ぶ基準はありました。私にとっては、自分の将来の可能性を狭めないことが非常に重要だったんですね。計数工学科では幅広い分野を扱うため、選択肢を広く保つことができるんです。

結局現時点で自分にとって何が最適かってわからないので、できるだけ幅広く、また後から変えることのできる選択をしておくのが正解だと思いました。これは大学受験の学部選択や就職に関しても同じだと考えています。

──計数工学科以外に進学を迷った学科はありますか?

点数が低かったので迷うことはできませんでした(笑)。マテリアル系の学科には行けましたが、自分の専門を材料系にする気はありませんでしたし、そもそも自分の専門をまだ決めるつもりはありませんでした。

──実際に計数工学科へ進学してどのようなことを勉強したのですか? 計数工学科の良さはどのようなところにありましたか?

計数工学科では、数学も物理もプログラミングも幅広く学ぶことができます。その点でこの学科を選んですごく良かったなと思いますね。学部の4年間でスペシャリストになることはできないので、その間に色々なことを幅広く勉強して頭の中に「地図」を作れた方が良いと思いますよ。

 どうしても大人になってからの「職業」ってとても狭いので、金融なら金融、公務員なら公務員の世界の繋がりばかりになってしまうんですね。だから、そういったとても狭い世界に入った後でも他の世界が存在することを認識して、学生の内も、社会人になってからも広く世界を知るべきだって思えると、30歳40歳になってからの伸び代が全く変わってくるのは実感しています。

──ありがとうございます。大学生活は必ずしも勉強一色ではないと思いますが、その他にどのような活動をされていましたか?

そうですね。私は、中学と高校で筑駒(筑波大学附属駒場中学・高等学校)という男子校にいて、大学も理Ⅰだったので実質男子校のようなものでした。当時(入学直後)鍛えるべきはコミュニケーション能力だと思って、テニサー三つに入って恋愛に失敗してばかりでしたね(笑)。

──そうなんですね(笑)。コミュニケーションが苦手なのにいきなりテニサーへ飛び込むのは抵抗はありませんでしたか?

実は高校2年生の頃にプチ成功体験をしていて。その経験から、0からでも飛び込めばなんとかレベルを上げられる、周囲も認めてくれると思っていたんです。

筑駒は主体性を持って動くことが重要な学校なのですが、高校入学当初はそのカルチャーに慣れなくて、喘息持ちで運動も苦手で学力もなくゲーセンにばかり行っているような人間でした。一方で友達100人欲しいとか周りから好かれたいみたいな理想は持っていたんですね。高校1年生の終わりくらいまでそのギャップに苦しんでいました。しかし、「周りの人に好きになってもらおうとか思う前に、自分が自分のこと好きじゃないな」って気付いたことがきっかけで「じゃあどうやったら自分が自分のことを好きになれるんだろう。自分のどこが嫌いなんだろう。」と問い直すようになりました。そこで一つ脱皮経験をして、自ら進んで真面目に勉強するようになり状況が改善したんですよね。

結果的に大学のサークルの一つでは部長をやっていました。それでも私と周りの間で執行代の熱量に差があり、周りと距離が生まれてしまうこともあって失敗経験の積み重ねでしたね。

──思春期ならではの脱皮ですね!

そうなんです。おっさんになった後にそこの脱皮って難しいので、若いうちに本能的、感覚的な自分の心の本音に気づけるようになれるかどうかっていうのはすごく大事ですね。東大生はロジックで考える人が多いと思うので尚更だと思います。

【経産省→独立】経産省での若手キャリアと独立のきっかけ~栫井さんインタビュー vol.2~

──ここからは就職とお仕事の内容についてお伺いします。栫井さんは学部卒で経済産業省に入省されていますが、修士課程への進学ではなく就職を選んだのはなぜですか?

計数工学科は4年の最後の半年で研究室配属になるので、その期間で研究室生活のイメージが大体つくんですよね。その「想像の範囲内に収まってしまう」修士の2年間よりも、外に飛び出して成長したいと考えました。また、大学にずっと残り続ける人より、一度大学の外の社会を経験してから大学に戻ってきた人の方が目立って活躍している、と父に教わったことも後押しになりました。

その上で、経済産業省を選んだのは自分の選択肢を狭めないためでした。経済産業省では担当する業界が1、2年ごとに変わるので、自分自身にどの業界・仕事が合っているのか発見することができると思いました。また、就職の面接の際に会う方々が大変魅力的であったこと、「国の目線」に興味があったことも理由です。世間的にはあまり良い評価を得ないこともある官僚が、これほど熱意を持って国を良くすることに取り組んでいる魅力的な方々であることに驚きを覚え、その理由を知りたいとも思いました。

──では、民間ではなく省庁を選んだのはなぜですか? また国家公務員一種試験(当時)の対策にはどれほどの時間を要しましたか?

お金ではなく成長を重視したからですね。民間の会社に入って金稼ぎのシステムの中に組み込まれてしまうと、自分の成長に利益によるバイアスがかかってしまうと思いました。価値の低い商品を高く売りつけるだとか、あるいは会社の得意なサービスに偏った目線を持つといった体験は避けられませんよね。それに対して国家公務員なら利益バイアスがかからない形で、社会に対して何が良いかをフラットな視点で考えながら成長できると思いました。ただ、お金稼ぎの中で伸びる能力もあるので、今思うと一長一短ですね。

公務員試験の対策にはほとんど時間を取りませんでした。一次試験の数的処理と物理には絶対の自信がありましたし、逆に時事問題は「4択なら25%は正解できるだろう」と思っていました(笑)。電気電子などの専門分野は専門学校のビデオで10時間程度勉強して、勉強期間は1ヶ月半くらいでしたね。結果1万人中6位でした。

面接を受けるにあたって私が一つだけ気をつけていたことは、「本音で話せるようにする」ことです。面談では5日間ひたすら朝から晩まで拘束されるので、自分を偽っていたら絶対どこかでボロが出ると考えました。「自分は本当に経済産業省に行きたいのか」「給料とか低いんじゃないか。それでも本当に行きたいのか」と何度も自問自答して、本音を整理しました。その結果、想定外の質問が来ても、全部本音で自信を持って答えられるようになりました。それに尽きますね。

──数多くの省庁の中でも経済産業省を選んだのはなぜですか?

省庁の合同説明会での印象が良かったからですね。経済産業省と文部科学省、総務省のお話を聞いたのですが、経済産業省のブースではワークショップを行った他に職員の方と一対一で話す時間も設けていただきました。試験の官庁訪問では20人ほどの方と面談するのですが、その過程でも職員の方々を非常に魅力的に感じました。

──国家公務員総合職になるのは外資系企業に就職するのに比べて給与が見劣りする部分があると思います。これは私や周囲の友人の悩みなのですが、そういった相対的な給与の低さは官僚を目指す上でネックにはなりませんでしたか?

それに関してはあまり気になりませんでしたね。そもそも周りが9割大学院に進む中で会社や給与の話題自体があまり上がりませんでした。よく話題に上がるのは「どういう技術を勉強しているのか」だとか「どこの研究職に行くのか」でしたね。そこは文系と理系の違いではないでしょうか。

──実際に入省してどのような仕事をされたのですか?

やはり20代の間は自分の成長を重視していたので、とにかく様々な仕事をしようと思い毎年異動希望を出していました。例えば社会人1年目では経済政策の司令塔のようなところで、2年目では外国人留学生の人材政策を、3, 4年目では内閣官房で民間企業からの出向者と働き、5, 6年目は再び経済産業省で課長補佐として働きました。

経済産業省は企業の経営者の方と頻繁に会う性質上、課長補佐への昇格が早いんですね。給与は係長のものなのでなんちゃって課長補佐みたいなものですが(笑)。 

課長補佐になると4人ほどの方に部下になってもらってプロジェクトマネジメントをするようになるのですが、自分の体さえ持てばいくらプロジェクトを抱えてもいいんですよ。それぞれの上司を説得してプロジェクト優先順位を付けて、新しく抱えた仕事に急いでキャッチアップしていくという経験はかなりベンチャーらしさがありました。この省には、「いきなり放り込まれてもとりあえず動こう!」みたいな人が多く、そういう人が向いていると思います。

──そのようなお仕事を経験した後に独立したいと思ったのはなぜなのでしょうか。

決定打となったのは東日本大震災でした。それまで原子力安全・保安院(現 原子力規制庁)は目立つ部署ではなかったのですが、原発事故で様々な局のエース級の先輩方が一気に集められたんですね。しかし、その危機対応のプロジェクトの進め方が統率取れていなくて非効率に見えました。自分がこのまま官僚でいて何か日本の社会に大事なことが起こったときに価値を発揮できる人間になるのか疑問を持ちました。自分が官僚の肩書を失ったときに一体どう活躍できるのか悩んだ結果、官僚としての経験に合わせて他のことも知って「掛け算的に」成長しようと思いました。

また、優秀であるはずの官僚たちに、社会に対してより価値を発揮してもらうために、自分が官と官、官と民、中央と地方の壁を壊して、橋渡しのビジネスをやろうと思ったんですよね。優秀な官僚のたちがそのまま消耗していくのを防いで、自分が民間スキルを高めて橋渡しとなり、百万人に感謝されるような社会貢献をしようと考えました。

また、実は官僚をやっているときに後輩のエンジニア・コンサルタントと4人で「週末起業」をしていました。収益化はしていなかったのですが、Webサービスのプロダクトコーディングをやっていました。しかしそのときの自分は、コーディングもできない、お金の稼ぎ方もわからない、プロジェクトマネジメントもできない、でスーパー無力だったんですよね。普段公務員として企業の偉い方と会ったり億単位の予算を投資しているだけでは、自分にスキルが身についていないことに気付けなかったと思います。こんな感じで他の組織では通用しない人間になってしまうことに怖さを感じていました。

──プログラミング経験なしでの独立と伺いましたが、実際にどのようなお仕事をされていたのですか?

0からプログラミングをやっていました。会社自体はシステム開発受託の会社をゼロから立ち上げて、営業経験も積みましたね。ひたすら民間でお金を稼ぐ、スキルを上げることを目的としていました。

──その次に起業した株式会社Zpeer(ズピア)はどのような会社なのですか? 栫井さんはZpeerでどのような経験を積まれましたか?

獣医師専用のメディア・プラットフォームビジネスです。その獣医師に対して製薬や医療機器、健康食メーカーなどB to Bのデジタルマーケティングの仕事をしていました。当時のウェブサービスはとにかく無料でユーザー数を稼いで、広告や課金でマネタイズするのが主流でした。そうではなく、ある程度のユーザー数を獲得した時点で、そこにコンサルティングを掛け合わせて収益を得るというZpeerの考え方は当時大変珍しく面白いものでした。

共同創業者である藤本裕氏はMBAトップクラスの成績で、外資のコンサルでバリバリに活躍するような人間でした。まるで「アクセルしかないビジネスモンスター」のような人で、もともとの製薬メーカー向けコンサルタントとしての経験を活かして営業やプロダクト納品の仕事を中心に毎日午前3時まで行っていました(笑)。一方私は、システムの要件を定義して発注して工程管理して……といったシステム的な部分や、ユーザーの満足度、UI、会社のコミュニティとしての雰囲気づくり、予算などその他全般を担当していました。たとえば、投資会社とのディスカッションにテクノロジー責任者として出席して、一人で会社のビジョンや事業計画を説明したこともあります(笑)。会社の運営経験を積んでいたという感じですね。

【官民連携】現在進行形の省庁・官民横断~栫井さんインタビュー vol.3~

──2度の起業経験のお話ありがとうございました。vol.3では、Publinkと官民連携を中心としてお話をお聞きします。まず、Publinkでは何を目指してどのような活動をしていらっしゃるのですか?

Publinkでは官と民の間の橋渡しとなることを目指しています。私自身も、官を否定するわけでもなく持ち上げるわけでもなく、官と民の間を「翻訳」してコーディネートできるようなレアな人材になりたいという思いがありました。そういう人って世の中にあんまりいないですよね。

活動自体はプラットフォーム作成に近いですね。Zpeerの経験から、つながりをひたすら掛け算で増やしていってその間を繋いで行くのは間違いなく正しいなと思っています。現在運営しているコミュニティが8個あるのですが、多くは100人以上のつながりをFacebookのグループで持っています。これらのつながりが直接ビジネスになるわけではなく、間接的に使えるアセットになっています。具体的には、今どこの部署がどのような政策をしているのかを共有していくことで、企業の方々と上手くwin-winの関係で繋ぐ手助けになるだろうと考えています。

これだけ起業を繰り返していると飽きっぽい人のように思われてしまうかもしれないのですが、実はこれまでの経験は全てPublinkに繋がっているんですね。20代のうちはひたすらスキル上げをしようと思っていて。経済産業省を辞めて、起業して民間のスキルと実績を身につけた方が官民の連携をするときに説得力があるじゃないですか。

──そうですね。プラットフォーム作成というのは具体的にどのようなものなのでしょうか。どこで売上を上げているのですか?

これ自体はビジネスにしていなくて、共感した人とか一緒に楽しみたい人が無料で繋がれるようにしています。そのつながりが間接的に仕事に使える、そういった信頼関係やネットワークを広げています。たとえばまちづくりの政策があったとき、そこには国土交通省だけでなく内閣府や経済産業省も関係していますよね? 通信を入れたら総務省も関係してくるかもしれません。しかし省庁を跨いでしまうと、お互いの「〇〇省〇〇局」の肩書が邪魔をして連携のハードルが非常に高いんです。その一方で、このコミュニティで個人として向き合うとすごく仲良くなってお互いに率直に話すことができるんです。

もちろんPublink自体は営利企業なので事業としては色々なことをやっています。たとえば、長野県庁の仕事を受託してきて、それぞれの市町村の持っている課題を県外の大企業やベンチャーにオープンイノベーションプログラムとして告知しています。プロジェクトをどう成功に導くかを今ちょうどやっているところですよ。

──そうなんですね! では今後Publinkを用いてどのような官民連携の将来像を描いているのですか?

まずはプラットフォームビジネスを洗練していくことですね。今は私が個別につないでいることが多いのですが、もっとみんなが自由に行き来できる場にして、私以外にも官と民のコーディネーターを産みたいと考えています。また、霞ヶ関の近くに物理的な場を確保しました。ここを一般社団として立ち上げて、官民連携に興味がある人たち、また他の官民連携組織の人が自由に集まれる「秘密基地」にできたら、と思っています。官僚同士が会議室で話すのではなく、個人として率直に話せる場にしたいですね。

──まさに官民連携が実体を持って進んでいるんですね。事業としての成長についてはいかがですか?

最近では受託の収益をウェブメディアに投資しています。Publingualというメディアで「政策を戦略に変える」をキャッチフレーズに、真面目に政策を伝えるメディアを目指しています。例えば、政府の100ページのwordを3分で解説しましょうとかですね。まだ収益化するにはユーザー数を稼ぐ必要がありますが、少しずつ投資しています。また、官と民で交流するオンラインサロンも運営しています。事業という点では上場も考えているところです。

「政策を戦略に変えるメディア」Publingualはこちらから!

──最後に20代の私たちに30歳、40歳の視点から見えるものを教えてください。

20代って色々な経験をどんどん積んで新しいことをしてスキルを高めたりお金を稼いだり、自分のレベル上げとも言えるようなことをカッコよく感じますよね。それは間違いないのですが、30代になると自分の成長しか眼中にない人は「嫌な自己満足野郎」になってしまいます(笑)。成長よりも、チームや社会に対して何を与えられるのか、という価値観に変わる人が多いですね。「インプットからアウトプットに変わる」と表現することもできます。30代になって周りにどのような価値を与えたいかを考えて20代の間成長できると理想的ですね。

40代は私にとっても未知の領域ですが、体力が圧倒的になくなりますよね。がむしゃらに働くだけでは20代に勝てなくなります。そこでこれまで自分が高めてきた部分を言語化・ブランド化するんですね。がむしゃらに周りへ貢献するのではなく、単価を上げて周りに尖った価値を出すことが大事になります。大学生の頃はとにかく周りに頼られることが嬉しかったりしますが、30代、40代からは「自分がどのように必要とされたいか」考える必要がありますね。

──年をとってからこそ自分の尖った専門性を出していく、その専門性で周囲に貢献していくということですね。とても勉強になります! 本当にありがとうございました。

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